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絵を相手にギブアップして、
「もうこの絵とは関わりたくない」
というところで、筆を置くわけです。
そういう意味では、ぼくの絵は
全部が未完成です。
だいたい、「完成」なんていうのは、
どういうことを言うんだろうね。
塗ってないところを塗りつぶせば完成、
というわけじゃないからね。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 冒険王、横尾忠則。 (via d-d-d, fyfyfy) (via proto-jp) (via ppparallelll) (via nemoi) (via flatmountain) (via gkojax-text)
思考実験をしよう。「自分は『モナ・リザ』以上の絵を描いたが、誰にも見せないうちに焼いてしまった」と主張する画家がいても、誰も真に受けないだろう。「誰にも見せないうちに」という部分を「一人だけに見せてから」と変え、その鑑賞者が「確かに『モナ・リザ』以上だった」と証言しても、事態はほとんど変わらない。
さて問題である。「一人だけ」が「十人だけ」のとき、あるいは「一億人だけ」のとき、事態はどれくらい変わるか?
もし鑑賞者十人と画家が話し合い、「あの絵は『モナ・リザ』以上だった」という共同見解を発表したら、胡散臭さに茶番が重なって、事態はむしろ悪くなる。一億人いれば、もっと悪くできる。もし画家がスターリンで、一億人の鑑賞者が全員ソ連人民なら、胡散臭さと茶番と圧制の三重奏だ。
事態をまともにするには、他者が必要だ。関係者の誰ともグルでない(=社会の外にいる)、自由に発言する、異論を差し挟む資格を有する他者が必要だ。評価を下すとき鑑賞者は、そのような他者を意識し、他者に対して説得力のあることを言おうと努めなければならない。このとき他者は実在しなくてもいい。もし誠実な鑑賞者なら、有資格者が自分ひとりのときにも、同じ努力をするだろう(ただし、評価を聞く人々がその誠実さをどれくらい信じるかは別の問題だ)。
他者なしで下された評価は、スターリンの見世物裁判が無効なのと同様、審美的判断として無効である。
中里一日記: 笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社) (via hazy-moon) (via tsuzuking) (via kommm) (via pvc) (via otsune, ethica) (via gkojax-text)
わかったのは、不安な時には脳の中で神経伝達物質が放出され、深さ優先の思考をさせるということです。楽しい時には……正の誘発性と呼ばれていますが……前頭葉にドーパミンが放出され、脳は幅優先の問題解決をするようになり、周りの刺激を受けやすく、より自由な発想をするようになります。ブレーンストーミングなんかそうです。
感情に訴えるデザインの3つの要素 (via milkcocoa) (via do-nothing) (via iyoda) (via majigire) (via proto-jp) (via gkojax-text)